老楼快悔 第77話 会津士魂、西郷頼母と萱野権兵衛

老楼快悔 第77話 会津士魂、西郷頼母と萱野権兵衛


 戊辰戦争で一番ワリを喰ったのは会津藩だろう。幕府の要請で藩主松平容保が京都守護職に就き、藩士らを率いて京都へ。孝明天皇の信頼は最も厚かったとされる。
 鳥羽・伏見の戦いが始まり、容保は将軍慶喜とともに「逆賊」とされる。なぜ逆賊なのか。会津藩の者たちは唖然となったはずだ。朝廷が出した「追訴状」の冒頭に「徳川慶喜」に続いて「奥州会津」とあり、以下27人が列記されている。
 慶喜は恭順したので、朝幕どちらにつくべきか迷っていた諸藩は、なだれを打って朝廷方についた。江戸城の開城、上野の戦い、そして戦火は奥羽に飛ぶ。
 慶応4(1868)年7月、新政府軍は会津の国境を突破して鶴ヶ城下に攻め込んだ。8月23日、早鐘が鳴り響く中、起こった凄まじい悲劇が家老・西郷頼母一族21人の集団自決だ。
 頼母はすでに出陣していた。妻千重子は長男吉十郎に「父のもとで戦うように」と諭して城に向かわせると、一族を屋敷の一室に集めて「足手まといにならぬよう潔く死のう」と述べ、それぞれ辞世を詠んだ。千重子の辞世。

  なよ竹の 風にまかする身ながらも たまわぬ節は ありとこそきけ

 壮絶な自決が始まった。千重子は幼い三女、四女、五女を懐刀で刺し殺した後、自ら喉を突いて斃れた。頼母の母、妹、娘、それに親族らが自決して果てた。
 戦乱の中で一族の集団自決を知った頼母は愕然となった。会津藩降伏後、榎本武揚率いる旧幕艦隊に合流して蝦夷地へ。後に一族の最期を自叙伝「栖雲記」として綴った。
 頼母は後年、日光東照宮宮司になった藩主容保のもとで禰宜を務めた。亡くなったのは明治36(1903)年、74歳だった。辞世は、

  あいつねの遠近(おここち)人に知らせてよ 保科近悳今死ぬるなり

 保科近悳とは頼母の元来の氏名である。
 会津藩が籠城戦の末、降伏した。新政府方は「家老3人の首を差し出せ」と迫った。この段階で上席家老らは戦死または藩を離れており、藩主のそばに残っていたのは権兵衛だけ。やむなくすでに死んでいる2人の家老名に権兵衛の名を添えて差し出した。
 新政府方は了承し、藩主父子は「死一等を減じて永のお預け」とし、権兵衛は会津藩の責任を一身に背負い、腹を斬った。
 権兵衛一家は以後、萱野姓をはばかり、妻の実家の郡姓を名乗る。次男の郡長正は福岡の小倉藩の育徳寮で学ぶが、母に宛てた頼りに「食べ物はまずい」と書いたのを同藩の子弟に見られ、「こんなことで文句をいうのか」と笑われる。長正は会津藩の名誉を汚されたとして、明治4(1871)年春、割腹自殺した。16歳だった。
 西郷頼母といい、萱野親子といい、会津士魂をたぎらせた生涯だったと感嘆するが、その原因をたどっていくと、明治維新という名のクーデターがもたらした弊害だったことに気づく。












 
2020年10月23日


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