老楼快悔 第76話 文字って凄いなぁ

老楼快悔 第76話 文字って凄いなぁ


ノンフィクション作品を書いていて、主人公の人物の残した言葉や遺墨に、しばしば驚かされる。例えば「男爵イモ」をつくった川田龍吉は、議論より実践を重く見て、「口の泡より腕の汗」の書を残した。
口から泡を飛ばして話し合うより、まず腕に汗をかくだけやってみろ、というのだ。北斗市当別の男爵資料館内に掲げられている。
よく似た言葉を残したのが新渡戸稲造だ。稲造は母校の札幌農学校教授をしながら、貧しい子どもたちのために遠友夜学校を開設した。ここで述べたのが「学問より実行」。学問の大事さを説きつつ、実行の尊さを述べたものだ。
名判官といわれた松本十郎は、樺太千島交換条約に基づく樺太アイヌの北海道移住で、開拓次官の黒田清隆と対立し、北海道を去るが、故郷の山形に帰ってからも北広島島松の中山久蔵とは親交を深めた。その一句が北広島市の島松駅逓所にある。

 大黒の槌にもまさる鍬の先

 久蔵翁の鍬は、大黒様の槌にもまさるとは、言い得て妙である。
 榎本武揚の晩年の書(東京農大オホーツクキャンパス蔵)は、こんな文字が並ぶ。



 学びて後、足らざるを知る、と読む。学んで初めて足りないことを知るという意味。最後の辛丑冬は、明治34年冬を指す。武揚66歳。箱館戦争に敗れ、命を助けられて30年後の書で、味わい深いものがある。
 ちょっと愉快なのは脱獄の名人といわれた五寸釘寅吉こと西川寅吉の書。刑執行停止後のものだが、それまでの経緯を少し述べたい。
 寅吉が犯罪を犯したのは21歳の時、長兄に足蹴にされ、小刀の峰で頭部を打ち、逮捕されたのが始まり。以後、身長150センチの小柄で、脱走、脱獄を繰り返した。
 五寸釘の異名を残すのは明治18年春。三重県松阪本町の質屋に忍び込んで見つかり、高さ4.5メートルの二階から飛び降り、板切れに刺さっていた五寸釘を踏み抜いた。だがそのまま10キロ先の知人宅まで駆け抜けた。以後、これがあだ名に。
 出所して地主の軒先の稲藁に放火して無期懲役になり、初めて北海道の空知集治監(刑務所)に収監されるが、坑内作業中に脱走して捕まり、こんどは樺戸集治監へ。あしかせを取り付ける看守の顎を蹴り、気絶させて脱獄。だがまた逮捕、次に網走監獄へ。
 ここで正面玄関の清掃担当になり、以来、脱獄をやめ、三十年間、何事もなく暮らす。
 七十歳で「刑執行停止」となり、出所するが、待ち受けていた函館の興行師に頼まれて「五寸釘寅吉劇団」を結成。僧形姿で全国を巡業して、喝采を浴びた。寅吉の和歌が月形樺戸博物館に現存する。

  胸の内 つもる思ひの雲晴れて くまなき月の 見るぞうれしき

 監獄とシャバを行き来した男の心境であろう。













 
2020年10月23日


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