老楼快悔 第66話 幸田明夫妻と乃木希典夫妻の死

老楼快悔 第66話 幸田明夫妻と乃木希典夫妻の死


 終戦記念日になると、海軍宗谷防備隊野寒布分遣隊特設見張所長の幸田明中尉(25歳)と妻、美智子(22歳)の夫妻のことを思い出す。昭和天皇の敗戦の詔勅がラジオで流れた日の夕方、二人だけで結婚式を挙げ、3日後の昭和20年(1945)8月18日、自決して果てたのである。
 幸田は鳥取県出身。日本大学在学中に学徒動員で樺太の能登呂守備隊に勤務し、続いて海馬島守備隊に移った。同年4月下旬、電探施設の施設作業中、アメリカ潜水艦の攻撃を受け、部下3人が戦死。その後、宗谷勤務になる。
 在学中に東京で知り合い、結婚を約束した美智子が、東京・上野駅を発ち、途中、秋田県の母の実家に立ち寄り、疎開中の母、弟と会い5日間過ごす。この間に広島、長崎に原爆投下され、ソ連が参戦した。



 再び混雑する汽車に乗り、車中泊を重ねて稚内に着いたのは8月14日夜。駅前の旅館に宿泊し、翌朝早く出迎えた幸田と会い、見張所に近い6畳と4畳半の新居に落ちつく。正午、敗戦の詔勅が伝わった。その夜、二人だけの祝言を挙げてから幸田は新妻に向かい、「無条件降伏となったいま、むざむざ生きていくわけにはいかないのだ」と述べた。
 大事な部下を死なせ、天皇に対して申し訳なく思ったのであろう。新妻は驚きながらも、夫の決意を知り、「私もお供します」と同意した。二人はそろって遺書を書いた。幸田の遺書は、

「君恥めを受くば 臣死す」他に申す事無之(これなく)候
  皇紀二千六百五年八月十五日       海軍中尉 幸田明(印)


 新妻もまた遺書を数通書いた。最後のものを掲げる。〇子は妹の名である。

 父上様 〇子ちゃん、〇子ちゃん。いよ~~最後のお別れです。本当に何の悔もなく私の理想通りの生涯を送ることが出来ました。自分の二十二年までの間を実にゝに幸せに思って居ます。軍人の妻として必ず立派に散ります。……お父さんの贈物で美智子は最後を飾ります。悲しくも淋しくもなし、本当に静かな気持ちです。
 
 幸田は軍服姿で、美智子は白い肌着の上に紫の標準服をまとい、数珠を手にして見張所の電探室に入り、正座して遙拝した後、幸田は日本刀を腹に突き立てて横に切り裂いて前にのめり絶命した。美智子は夫からもらった青酸カリをあおって崩れ落ち、息絶えた。
 天皇に忠誠を貫こうと死を全うした若い将校とその妻の話を知る人も少なくなった。
 この死のちょうど33年前に亡くなった明治天皇の後を追って殉死したのが乃木希典、静子夫妻である。乃木は単身、逝くつもりだった。これは遺書からも明らかである。だが夫の決意を知り、妻も共に逝く。
 なぜ死ななければならなかったのか。時代、時代に流れる風だけが、それを知っている、と思えてならない。







 
2020年8月7日


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