老楼快悔 第65話 「本物の“遺書”になりました」
昭和43年(1968)1月20日夕、美唄市の美唄炭鉱で起こったガス爆発事故は、私の新聞記者生活の中でも忘れがたく、いまも時折、思い出して胸が熱くなる。
三笠支局勤務だった私に、本社から事故の通報が届いてすぐ現場へ。第一報はすでに美唄支局の若い記者が送っていた。逃げ後れた7人が遺体となって発見され、11人が坑内に閉じ込められたままという。ほどなく札幌本社社会部の記者たちがやってきた。
翌朝、会社側から思わぬ通告が出た。
「坑内のガス量が危険数値に近づき、再爆発の恐れが出たので、鉱山保安監察署の勧告に基づき救出を一時中断、九番層三片坑道に空気を遮断する布張りをした」というのだ。
この日は日曜日で夕刊がない。北海道新聞は22日朝刊で「坑道に“死の封印”/11人の生存全く絶望」の見出しで報じた。
丸一日が経過して救出が再開され、6人が遺体となって発見された。午後7時過ぎ“奇跡”が起こった。九番層左二半坑道で、下請け会社の作業員、Sさん(44)とOさん(29)が生存していたのだ。炭鉱街は歓喜に包まれた。
救出された現場からSさんの書いた「遺書」が見つかった。爆発でちぎれた木板2枚の裏表に白墨で書かれたものだった。1枚は現場の模様を、もう一枚には、
「秀世よ、かおるをたのむぞ。母さんを大切にしてくれ。もうだめかもしれぬ。絶対に死にたくない。どんなことがあっても」と書かれていた。
秀世は長男、かおるは長女の幼い兄妹。母は病院に入院中だった。
Sさんは労災病院に収容され、低酸素症後遺症と診断された。18日後に意識は戻ったが、知能は鈍ったままという後遺症が残った。3年後に病床の妻が亡くなり、その翌年には美唄炭鉱が閉山になったが、その事実さえも認識できなかった。やがて「症状固定」と診断されて岩見沢の身障者病院に移された。後、札幌の病院へ移る。
秀世さんら兄妹は成人して、家庭を持つ身になった。この間、私は転勤を重ねるなかで、秀世さんと連絡し合って、何度か病院を訪ねた。
平成元年(1989)8月29日朝、出社すると、秀世さんから父の死を知らせる連絡メモが入っていた。事故から21年が経過していた。
その夜、通夜の席に赴いた。事故のことなど知る人もいない。秀世さんが近づいてきて「あの板切れの遺書が、本物の遺書になりました」と言い、私に崩れかかり、涙をぬぐった。
2020年7月27日
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