老楼快悔 第57話 島義勇の漢詩に見る決意

老楼快悔 第57話 島義勇の漢詩に見る決意


 石狩大府の建設を任されたのが、開拓使の初代判官島義勇。北海道神宮に現存する漢詩集「北海道紀行」から、その決意がひしひしと伝わってくる。
 義勇が銭函村(小樽)から札幌に初めて足を踏み入れたのは、明治2年11月10日(新暦に直すと12月12日)時折、吹雪が舞っていた。義勇はコタンベツの丘(今の北海道神宮)に登り、はるかに原野を見渡して漢詩を詠んだ。

 河水遠く流れて 山隅に峙(そばだ)つ
 平原千里(へいげんせんり) 地は膏腴(こうゆ)
 四通八達(しつうはったつ) 宜(よろ)しく府(ふ)を開くべし
 他日(たじつ)五洲(ごしゅう)第一の都

 有名なこの漢詩の意味は、遠く河水が流れ、山が隅に見える。平原が千里の彼方まで続き、地味は豊かだ。各地への通じる道を作り、府を開くように。いつの日か、世界第一の都になるだろう、というもの。その読みの凄さに、圧倒される。
 だが、真冬の建設工事は厳しいものだった。「北海暦知らず 積雪荒叢(こうそう)に満つ」と状況で、「荒原犬を伴ひて眠るを嫌(いと)はず」と決意し、「寒郊」で「幾宵か留る」うち「礼儀無し 判官の足は土人(アイヌ民族の意)の頭に在り」となり、無礼を許してくれ、と詠んだ。
 到着を待ちかねていた米や資材を積んだ官船が難破してしまう。食糧もままならず、場所請負人を役人に取り立てて米を出させるなど苦労を重ねたため、開拓使の資金はたちまち底をつく。事情を知らない開拓長官は激怒し、太政官に「資金を増やすか、義勇を辞めさせるか」と迫り、結局、義勇は東京召還を命じられる。
 愕然となった義勇は「北道に老いて 茲(ここ)に生くるを ……何ぞ計らん 徳恩帝京に帰らんとは」と詠んだ。老齢までここに生きようとしていたのに、と嘆くのだ。
 こうして義勇は、僅か三ヵ月で北海道を離れる。その後「佐賀の乱」を引き起こして斬首刑に。だが義勇の描いた雄大な計画は実を結び、現在の札幌の町を作り上げる。
 市役所玄関ロビーと神宮境内に二つの義勇像、さらに故郷佐賀にも像が建った。
 市役所の義勇像の足元に「五州第一の都」の漢詩が刻まれている。久しぶりに二つの義勇像と語り合ってこようか、と季節がめぐりくるのを心待ちにしている。



















 
2020年5月28日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ