老楼快悔 第49話 八甲田山に向かったアイヌ民族

老楼快悔 第49話 八甲田山に向かったアイヌ民族





 雪中行軍訓練中に起こった大惨事「八甲田山死の彷徨」は、小説や映画などでよく知られるが、この捜索活動に道内のアイヌ民族7人が参加していたのをご存じだろうか。
 1902年(明治35)1月23日朝、陸軍歩兵第五聨隊第二大隊第五中隊の210人が青森市郊外筒井村を出立した。八甲田山麓を田代元湯まで20キロ余りを二泊三日で踏破する行程だった。
 なぜ猛吹雪が襲う危険な真冬に、行軍訓練をしたのか。実はこの時期、わが国とロシアは緊迫した情勢で、一触即発の危機を孕んでいた。開戦に備えての実戦的訓練だった。
 行軍訓練の一行は重い荷物を背負って歩き続けた。茂木野から小峠、大峠、火打山麓、大滝平などを経て馬立場に着いた。ここは標高732メートル。強風が吹きつけていた。設営隊がコースを間違える誤算もあり、積雪2.8メートルの南斜面で雪洞を作って露営した。氷点下12度。吹雪が激しい。
 翌日も吹雪。一行は長い隊列を作って出立したが、駒込川の本流にぶつかって進めなくなり、鳴沢の沢地まで戻り、支流を遡った。だが積雪で進むことができず、また露営。疲労と寒気で斃れる者が続出した。翌日も猛吹雪が襲い、なすすべもなく彷徨し、露営したものの死者が続出した。
 急報を受けた第五聨隊本部は27日朝から捜索を開始し、難航を極めながらも、積雪の中から遺体を一体、また一体と発見し、収容していった。
 北海道八雲村に住むアイヌ民族の辨開凧次郎ら7人が、それぞれイヌを連れて探索に参加したのは2月10日。『遭難始末 歩兵第五聨隊』(財団法人稽古館)にはこんな記事が見える。
 雪国ニ生長シテ其(その)経験ノ多カランコトヲ思ヒ、之ヲ雇役シテ捜索ニ使用セント欲シ(中略)司令官斡旋即チ七名ヲ得テ派遣ス、由テ翌日ヨリ捜索ニ従事セシム。
 この時、辨開は「吾等今日アルハ誠ニ皇恩ニ之レヨル、今日此命ヲ拝ス、敢テ死力ヲ尽シ……」と述べたと記されている。
 辨開らが捜索したのはもっとも探索が難しい駒込川渓谷だったが、そこで多くの死者を発見、収容している。全体の死者は199人。世界史上最大の遭難事故といわれる。
 辨開らの捜索は4月22日まで二か月余りに及んだ。聨隊長はその功を讃えて感謝状と報奨を与えたうえ、「弘前市ヲ一覧セシメ、廿一日帰路ニ就カシム」と記した。この遭難事故の2年後に日露戦争が勃発する。
 八甲田山の遭難とアイヌ民族をめぐる思いがけない記録として、書き留めておく。


















 
2020年3月6日


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