老楼快悔 第45話 『アイヌ神謡集』の序文
銀の滴降る降るまはりに 金の滴降る降るまはりに
これはアイヌ民族の若い女性、知里幸恵の『アイヌ神謡集』に出てくる有名な一文である。幸恵が幼い日、祖母のモナシノウクや叔母の金成マツから聞いたアイヌ民族の口承文芸を、金田一京助に勧められ、まとめたものだ。
でも、冒頭の序文に目を通す人は少ない。長文だが大要を紹介する。
其の昔此の広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて、のんびり楽しく生活してゐた彼等は、真に自然の寵児、何と云ふ幸福な人たちだったでせう。(中略)
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何処。僅かに残る私たちの同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。而(しか)も其の眼からは一挙一動宗教的観念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おヽ亡びゆくもの……、それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持ってゐるのでせう。
登別で生まれた幸恵は6歳の時、母の実家である旭川の祖母宅に移り、祖母や叔母からユーカラを聞きながら育った。明治43年4月、上川第3尋常小学校に入学し、間もなくアイヌの子弟が学ぶ上川第5尋常小学校に移り、区立女子職業学校に進む。
金田一がアイヌ民族に伝わる口承文芸の採取のため、同家を訪れたのは幸恵が女子職業校2年生の夏。金田一から「アイヌのユーカラは貴重な文学である」と教えられて感激し、ノートにローマ字でユーカラを筆記した。だが幸恵は心臓病を患っていた。
大正11年(1922)春、金田一の勧めで上京し、同宅で過ごすが、体調が優れず帰郷を決意する。その年9月18日、最後の校正刷りの点検を終え、夕食の後に心臓が病み昏倒。医師が往診したが、同夜遅く息を引き取った。19歳3ヵ月の短い生涯だった。
『アイヌ神謡集』はほどなく出版され、大きな反響を呼ぶが、幸恵がもっとも主張したかったのは、前述の序文ではなかったか、と思えてならない。アイヌ故に辿らなければならなかった差別と屈辱に塗れた歴史に対して、渾身を込めて放ったこの一矢こそ、心して聞くべきではなかったか。2021年は幸恵没後100年になる。
2020年1月30日
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