老楼快悔 第42話 「悲恋塚」に秘められたもの
道南の海岸線沿いに延びる国道229号を走ると、乙部町館の岬近くに「悲恋塚」と刻まれた碑が見える。天保一四年(1843)12月28日夜、結婚を反対された若い与作が、恋しいお岩を木材の間にはさんで殺し、断崖から投身自殺したとされる現場である。
事件は永く語り継がれ、不憫な男女を主人公にした「丹波節」や「じょんがら節」が生まれた。碑が建立されたのは昭和四五年(1970)12月29日、つまり事件から130年ほどして、当時の町長が、悲しい故郷の歴史を後世に伝えようと建てたものという。
NHK札幌放送局の「人間登場」という番組に携わり、この悲恋物語を制作することになった。15分間のシナリオを書き、Aディレクター、それにカメラマン、音声担当とともに車で現地へ。インタビューの相手は地元の郷土研究家の葉梨孝幸さん。早くからの知己なので、電話をしてから現場へ赴いた。
撮影に入ろうとした時、葉梨さんが突然、こんな話をしたのだ。
「町史の執筆で資料を収集しているうち、乙部で二百年も続く近藤家から意外な古文書が見つかったのです」
見せられた古文書は二通。与作とお岩の家族からそれぞれ「変わった死に方なので、もう一度調べてほしい」との役人に出された願い文だった。与作は所用で出かけ、崖から落ちてきた岩石に打たれて死んだ、お岩は気が触れて、家人が知らぬ間に外へ出て、倒れて死んだという。しかも文書の日付は、伝えられる年より13年も早い天保元年(1830)12月なのだ。
近藤家の過去帳を改めて調べてみると、与作の死は文政13年(天保元年)になっている。これでは番組にはならない。慌てた。
なぜこんなことになったのか。ディレクターも含めて話し合ったがわからない。結局、こうではないかと推測した。当時の役人は、自分の所轄内で心中事件などが起きると、行政不行き届きとされた。そこで事件を隠そうと両家に指示して、別々に死んだことにして届けさせた……。ではなぜ発生を13年も先にしたのか、
「これは謎のままでいこう」
ディレクターの判断で急遽、原稿を書き直して、VTRを撮り終えて、予定通り放送した。後日、謎が解けた。やはり役人の仕業で、自分の立場が危うくなると考え、事件を過去のものにして処理したらしい。こうすればさしたるお咎めもなかったというわけ。
なるほどと納得した。それにしても葉梨さんの古文書の読みの凄さに、唸った。
2019年12月26日
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