老楼快悔 第32話 切腹を免れた人の髪の毛
「堺事件」といっても、知らない人が多いだろう。慶応4年(明治元年)2月15日夕、泉州堺港(現、大阪府堺市)で起こった土佐藩兵によるフランス人殺害と、切腹を申し渡された土佐藩兵が“生と死”の狭間に立たされた事件である。
この事件を『日本史の現場検証』に収録しようと、堺市を訪ねた。ここは大阪湾東湾に位置し、古くから貿易が盛んで、現在も重要な貿易港として繁栄している。
沖合に停泊中のフランス軍艦から、突然、フランス兵たちがボートで上陸してきた地点に立つ。事件の発端現場である。
朝命で駐屯中の土佐藩の六番隊長、箕浦猪之吉が、藩兵を率いて上陸地点へ急行し、退去を命じた。だが言葉が通じず、フランス兵を引っ立てようとした。フランス兵はボートに逃げたが、そのうち一人が塀に立て掛けてあった土佐藩旗を奪い取った。隊付きの者が鳶口でフランス兵に切り付け、旗を奪い返した。ボートに逃れたフランス兵がピストルを発射した。箕浦は射撃命令を出し、激しい銃撃戦となり、フランス兵は撃たれたり海中に転落するなどして11人が死んだ。
「神戸事件」が国際問題化し、責任者が切腹してからまだ1週間しか経っていない。再び外交上の問題になり、慌てた新政府は箕浦以下20人を切腹させ、賠償金15万ドルを支払うことでフランス側と合意に達した。
2月23日夕、堺の妙国寺境内に切腹の場が設けられ、日本人検使とフランス士官の検使が見守る中、切腹が始まった。箕浦が最初に腹を切った。悲鳴が起こった。次々に切腹が続けられ、あまりの残忍さに耐えきれず、フランス艦長が、中止を叫んだ。これにより切腹は中断された。偶然にも腹を切った人数がフランス兵の死者数と同じ11人となった。
「とさのさむらいはらきりのば」と刻まれた碑を見てから、妙国寺を訪れた。境内に「英士割腹跡」の碑が見える。宝物館徳正殿に、切腹を命じられた20人の辞世とその姿を描いた絵が掲げられ、20人が残した頭髪が三方に載せて安置されていた。
死を決意した20人が残した髪の毛である。そのうち11人が死の道をたどり、9人が生きて故郷に戻ったのである。一瞬、目眩のようなものを感じた。
生死の分かれ目となったフランス艦長の叫び。それにより生き長らえた武士がいた。その武士たちはその後、どんな道を歩んだのか。またぞろ探究の虫が蠢きだして、いやはやとわが頭を掻いた。
2019年9月16日
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