老楼快悔 第31話 久慈次郎が残したもの
久慈次郎。函館太洋(オーシャン)倶楽部の監督兼選手。昭和戦前の社会人野球界の名捕手で、全米選抜チームを迎え撃つ全日本軍の主将を務めた。わが国にプロ野球が誕生した時、大日本東京野球倶楽部(後の巨人)の主将として入団が約束されていた。
この久慈次郎が亡くなったのは昭和14(1939)年8月21日、札幌の円山球場(当時は札幌神社外苑球場)で行われた北海道樺太実業団野球大会の試合で、送球を頭部に受けたのが原因。
“事故”の経緯を述べると、8月19日午後3時から函館太洋対札幌倶楽部戦が始まり、久慈は先発メンバーから外れて、ベンチで指揮を執っていた。4回を過ぎて2対1で札幌のリード。5回、久慈はたまらず1塁守備についた。
7回、函館の攻撃。先頭の坂田が遊ゴロ失で出塁、代走松岡に。打者は久慈。第1球、松岡が盗塁を決めて無死2塁。一発同点の場面で札幌は敬遠策を取り、久慈を歩かせた。主審が「フォアーボール」と告げた。
久慈はバットを捨てて1塁へ歩きかけて一瞬立ち止まり、振り返って次打者に声をかけようとした時、変事が起こった。2塁走者を刺そうとして札幌の吉田捕手の投げた球が、久慈の右こめかみを直撃した。久慈はその場に倒れた。
試合は中断になり、久慈は救急車で市立病院に運ばれたが、右こめかみの骨が折れて出血がひどく、危険な状態に陥った。翌20日、破片した骨の摘出手術が行われ、久慈と同じB型の両軍選手が献血した。だが意識は戻らないまま。21日朝、息を引き取った。
札幌警察署が捜査に乗り出し、過失致死容疑で取り調べを受けた吉田捕手は精神的ショックで病床に臥し、「厳罰にしてほしい」と願った。だが同情論も高まり、警察は捜査を中断した。
久慈がプロ野球行きを断念したのは、函館大火により失意の函館市民を放って行くわけにはいかなかったこと。そしてこの大会への参加も、主催者の小樽新聞社から頼み込まれて、断りきれずに出場したなどを考え合わせると、久慈の人間性が見えてくる。
都市対抗の敢闘賞久慈賞は、久慈の功績を讃えたもので、函館市営球場の入口には久慈次郎像がある。函館の称名寺境内に立つ久慈の墓は、妻カヨさんが建てたものだが、ボール型の丸い石にベースの板型の石、ミット型の骨入れ口にバット型の花瓶が、ひときわ輝いて見える。
2019年9月6日
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