老楼快悔 第30話 墓をめぐる話、2つ、3つ
前号で墓の話を書いたら、もっと書け、というメールを頂戴した。ならば、というわけで、一筆。
墓はたいてい、ひとつ、と相場が決まっているが、そうはならない人もいる。吉田松陰は幕府の転覆を図ったとして“安政の大獄”で処刑されたが、それから10年後に明治維新成り、評価が一変して、政府転覆計画の大罪人が「神」に祭り上げられた。
だから松陰の墓は、処刑された東京の小塚原刑場跡の回向院にあるほか、松陰を神と祭る東京・世田谷の松陰神社の裏手にもある。松陰神社はもうひとつ、故郷の山口県萩市にあり、ここから少し離れた椿東椎原の団子岩墓所にある。つまり松陰は、神として祭られている神社が2つ、仏として祭られている墓が2つ、というわけだ。
小塚原の回向院と萩市の団子岩墓所の墓には「松陰二十一回猛士」と刻まれている。吉田の文字を崩すと二十一回の文字になり、死ぬまで21回の行動を起こすと決意して、自らが唱えたものという。
極悪人から神になった希有な人物だから、墓の数も多い、と思っていたら、もう1人、戊辰戦争の戦いで官軍に捕まり、「賊」として処刑された新選組の近藤勇の墓が5つもあるのを知った。
近藤は江戸に戻り、新選組隊士らで甲陽鎮撫隊を組織して大久保大和と名乗り、出陣するが、勝沼宿の戦いに敗れて下総流山に移る。官軍に囲まれたため自ら敵陣営に出向いて「大久保大和」を名乗るが、見破られて江戸板橋宿のはずれの一里塚で首を討たれた。首はその場に晒された。
首は京都に送られて、三条河原に再び晒された。三日後に同志が夜陰に乗じて盗み出し、京都の寺に運んだが、断られ、三河岡崎の法蔵寺に運び、埋葬された。首のない胴体は刑場近くに埋められたが、遺族が密かに掘り出して、三鷹の龍源寺へ運んだ。
従って近藤勇の墓は、討たれた板橋の刑場、現在のJR板橋駅前の茂みの中に「近藤勇宜昌 土方歳三義豊之墓」が立つ。後年、同志の永倉新八が建立したものだ。次は胴体を葬った三鷹市の龍源寺、首を祭った愛知県岡崎市の法蔵寺。東京・荒川区の円通寺にも墓がある。福島県会津若松市の愛宕山中腹にある墓は会津藩主松平容保が建立したものだ。
墓が5つ、戒名も3つ。近藤勇さんよ、もって瞑すべし。
2019年8月26日
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