老楼快悔 第27話 「そんなに死に急がなくても」
会津藩家老の西郷頼母一族21人の自決は、白虎隊の集団自決と並ぶ悲しい末路といえる。「そんなに死に急がなくても」と後世の人たちは言うが、主人の頼母に憂いなく戦ってほしいと望み、決然として逝ったのである。だが、その最期はあまりにも壮絶すぎた。
慶応4(1868)年8月23日朝、危急を知らせる早鐘が鳴り響く中、妻の千重子(34)は11歳の嫡男吉十郎に、「早く城に行って父上の手助けをしなさい」と励まして送りだすと、母律子(58)はじめ一族をうながして奥の間に入り、辞世を読み上げた。
なよ竹の 風にまかする身ながらも たまわぬ節は ありとこそきけ(千重子)
続いて母律子が詠み上げた。
秋霜飛んで 金風冷やか 白雲去りて 月の輪高し
長女細布子(たいこ)(16)、次女瀑布子(たきこ)(13)は一首をわけて詠んだ。
手をとりて 共に行なば迷わしよ(瀑布子)
いざたとらまし 死出の山みち(細布子)
別れの水盃を交わすと、決然として自決が始まった。千重子は幼い3女(9)、4女(4)、5女(2)を次々に太刀で切り殺し、自らも喉を突いて果てた。
律子も、姉妹も、頼母の妹の眉寿子(みすこ)(26)も、由布子(ゆうこ)(23)も、さらに親戚の西郷鉄之助(67)と妻きく子(59)、頼母の外祖母ひで子(77)……も、合わせて21人が、死への道を辿ったのだ。
会津若松市の「会津武家屋敷」に、自決の現場が再現されているが、白衣をまとった女性たちの人形姿に、身がすくむ思いがした。
話は飛ぶが、満蒙開拓団の最期を書くのに旧満州地帯を歩いた時、日本人の集団自決を目撃したという老いた中国人に出会った。彼は口から泡を飛ばして、罵るように言った。
「死ぬな、死ぬなと何度も止めたのに、日本人たちは建物に入って、天皇陛下万歳って叫んで、家に火を放って死んでいった。死んでしまったら、何もない。日本人は馬鹿だ」
その通りだ、と思う。死ななくったって、別の道があったはずだ。何とか生き延びて生きてさえいれば。だが――、生き延びた人たちがソ連軍に襲われ、2人の娘が性の奴隷の「人身御供」として差し出された話も聞かされて、慄然となった。
生きるとは何か。死とは何か。その場に立った人間のぎりぎりの判断に、余人が口を挟むことなどできない、と考え込む。
2019年7月29日
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