老楼快悔 第25話 満蒙開拓義勇軍と老先生の涙

老楼快悔 第25話 満蒙開拓義勇軍と老先生の涙


 満蒙開拓団といっても、ぴんとこない人が多いだろう。でも昭和戦前まで厳然として存在した。政府が国策として「満州に渡り、新天地をひらこう」と呼びかけ、それに応じて大陸に渡った開拓団はおよそ千団、37万人にものぼる。
 この中に満蒙開拓義勇軍という組織があった。とても勇ましく聞こえようが、実態は昔の高等科を卒業した男の子たちばかり。今の中学2年生に相当する。その子どもたちが1年間、内地で実業を学んでから、軍隊の組織と同様に小隊、中隊を編成して大陸に向かうのである。中隊長は小学校の校長先生、小隊長は高等科の先生。
 入植した満州の土地は、ほとんどが中国人が営農していたのを言葉巧みに奪い取ったところだ。だが子どもたちはそんな事実も知らず、「日本国のために」と朝から晩まで働いた。
 昭和17(1942)年春、山形県松本市から生徒たちを引率して、満州の密山県に入植した第5次信州義勇隊総合開拓団の指導者、Kさんは元小学校長で義勇隊の中隊長。戦後の昭和22(1947)年に多くの子どもたちを失いながら、日本に引き揚げてきたが、国策の怖さをこう話した。
「満蒙開拓義勇軍、こんな立派な名前で、子どもたちを連れて。国家の命令です。逆らえなかった。子どもたちを指導して土地を耕し、種を播く。でもまだ14、15歳の子どもたちです。昼間、働いているうちはいいが、夜になると家が恋しいと泣きだすんです」
「それが、5人、10人、20人……と増えていく。こらっ、義勇軍が、泣くなっ、って怒鳴っても、泣き声はおさまらない。そりゃ可哀相ですよ。なかには寝小便もする子もいて。それを叱りつけ、廊下に立たせる。酷いことしたもんです」
 敗戦になり、食糧もないままふた冬を過ごし、多くの死者を出しながらも、助け合いながらやっと帰国することができた。
「もう30年以上も経ちました。なぜあんな無謀な国策を遂行したのか。なぜ私たち教師はそれに追従してしまったのか。亡くなった子どもたちにも、一緒に帰ってきた子どもたちにも、何といって詫びたらいいか、言葉もありません」
 老教師はそう言ってさめざめと泣いた。
『死の逃避行 満州開拓団27万人』(富士書苑)の取材で、この老教師と一晩、語り明かしたのは昭和53(1978)年。いまから40年も前になるが、その時の涙が、いまも瞼から離れない。







 
2019年7月8日


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