老楼快悔 第20話 咸臨丸とチューリップ
木古内町の更木岬――、といえば、「ああ、チューリップが咲いている岬」と答える人が多くなった。先日、「いさりび鉄道」に乗り、岬を見た。初冬の気配が立ち込めていて、「咸臨丸ここに眠る」と記された標識のそばに、咸臨丸の模型が置かれている。
明治4(1871)年のこの時期、咸臨丸は仙台藩白石城主片倉小十郎家来ら移住者401人を乗せて航海中、この沖合で遭難した。乗船者たちは地元泉沢集落の小舟に救われた。でも咸臨丸の話は「そんな話があったそう」という程度で、標識だけが幻のように立っていた……。
私は平成元年秋、北海道新聞の日曜版の取材で岡山へ出かけ、その足で塩飽諸島の本島へ渡った。島の中央に旧勤番所を活用した郷土資料館があり、館内に石川政太郎の「咸臨丸日記」が置かれていた。あれっ? 一瞬、北海道の更木岬に立つ標識が頭に浮かんだ。日記をめくっていくと、最後の方に2つの墓が描かれていた。はっとなった。
咸臨丸はオランダで製造され、安政4(1857)年、オランダ教授らを乗せて来日、長崎の海軍伝習所の専用船になった。万延元(1860)年、日米修好通商条約締結のための随行船として、副使木村摂津守、艦長勝海舟以下を乗せてサンフランシスコへ赴いた。日本人だけで太平洋を乗り越えた軍艦として喧伝された。石川の絵は、その時に亡くなった同志の墓の絵だった。
咸臨丸は戊辰戦争が起こると、榎本武揚率いる旧幕府軍の艦隊に組み込まれ、江戸・品川沖を脱走。途中、暴風雨に襲われ、駿府清水港へ逃れるが、新政府艦隊に襲撃され、死者が続出。船体は新政府に奪われた。維新後は新政府の運搬船となり、奥羽の武士団の北海道移住に使われた。その航海の最中、更木岬沖で座礁、沈没した。
平成7(1995)年秋、オランダに赴いて松本善之オランダ北海道人会長の案内で、咸臨丸を建造したキンデルダイク造船所を訪ね、発注者がジャパン・エンペラーと記載されているのを知る。これが奇縁となって、大森伊佐緒木古内町長の親書をオランダのキンデルダイク村の村長に手渡すなどした。
拙著『咸臨丸、栄光と悲劇の5000日』(北海道新聞社)が出版されて、木古内に「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)が発足、岬の整備が始まった。松本会長がオランダのチューリップをプレゼントしてくれたのがきっかけで、岬はチューリップで埋め尽くされた。咸臨丸子孫の会のメンバーとも知り合い、「きこない咸臨丸まつり」が誕生した。
毎年5月になると、岬はチューリップの色彩で染まる。いさりび鉄道の電車は、泉沢を過ぎてカーブに差しかかると、スピードを落として運転してくれる。車中から、更木岬の沖に真っ青な海が見える。一度、歴史的風物詩の見物にでかけてみてはいかが。
2019年5月17日
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