老楼快悔 第11話『ノンフィクション塾』

老楼快悔 第11話『ノンフィクション塾』


 道新文化センターの文章教室の講師を25年間も続けている。初めは「自分史の書き方」からスタートしたが、途中からノンフィクション塾に衣替えした。
 この間に、自ら本を出版した塾生は9人を数えた。中には「自分史大賞」を取った人、北海道ノンフィクション大賞を受賞した人が複数人、道新文学賞の佳作を受賞したのが2人。歴史物を複数冊も出した人、近く出版を計画している塾生もいて、熱気を感じる。
 教室にはいろんな人が顔を出す。面食らったのは北大の名誉教授。「私は工学部だったので、文章が下手なんです」と言った。真面目な方でよく書いたが、なかなかうまくならず、「昔の癖が直らない」と愚痴をこぼし、最後まで上達しなかった。でも若い人たちに好かれ、ひどく人気があった。
 会社社長が入塾の初日に、名刺をいっぱい詰めた大きな箱を持ち込んできた。「私はこの数年間で、これだけの人に会った。これを文章にしたいのです」。「いいですねぇ」と相槌を打った。ところがこの社長、さっぱり筆が進まない。構想を質すと「ここへ来たら、すっと文章になると思っていた」と言い、苦笑した。
 80歳に近い女性は自分の生涯を作品にまとめたいと願い、ついに完成させたが、ほどなく亡くなった。作品『私が歩いた道』は、紙で建てた自らの墓標となった。
 中年のサラリーマン医師が入ってきた。面白い視点を持っているが、やや独創的に過ぎる印象だ。夢は作家という。いずれ凄いことをやってのけるはず、と密かに期待している。
 驚いたのは釧路に住む放送局勤務の男性部長。月に2回の塾に、仕事の合間を縫って駆けつける。しかもその文章がこちらを唸らせるのだ。だがこの距離の遠さにどこまで耐えられるか。
 札幌に住む高名な女流作家に「入塾したいの」と打診された時は、正直、困惑した。「小説はたくさん書いてきたけれど、ノンフィクションは書いたことがないので」という。でも、丁重にお断りした。こんな大物が入ってきたら、ちっぽけな塾など吹っ飛んでしまうじゃないか。
 一番驚いたのは、筆者が退職前まで勤務していた新聞社の最高幹部から、「入塾したいのだが」と言われた時だ。これは嬉しい。でもやはりお断りした。この話をしたら塾生たちは、なぜかしきりに残念がっていた。




 
2019年2月18日


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