老楼快悔 第10話『コースチャ坊やに会いたい』

老楼快悔 第10話『コースチャ坊やに会いたい』


 火傷を負って札幌へ送られたソ連(ロシア)のコンスタンチン君(愛称コースチャ)が、いまは結婚して、幸せに暮らしていると、テレビが伝えていた。一瞬、「会って伝えたいことがある」と思った。
 コースチャ坊やを助けて――、サハリン州知事から道知事のもとに、火傷の治療要請が入ったのは平成2(1990)年8月27日午後。「幼子の命はあと70時間」という。日ソ間に平和条約はなく、ソ連人をビザなしで救急移送することはできない。だがこと人命に関わる問題だ。
 道知事の決断で移送の交渉が始まり、外務省、法務省も動きだして、「仮上陸」という特殊な滞在許可を与えることとし、医師の派遣も決まった。
 翌日未明、札幌医大の教授らを乗せた海上保安庁の飛行機が千歳空港を離陸、午前7時にサハリンのユジノサハリンスク空港着。坊やは父親に付き添われて同機に乗り込み、そのまま丘珠空港へ。待機していたヘリコプターで札幌医大病院に運ばれ、救急集中治療室に入り、皮膚手術が行われた。ぎりぎりの息詰まる時間との戦いだった。
 手術は皮膚移植も含めて6回行われ、治療がすべて完了。この間、全国から励ましの声とともに見舞金が寄せられた。
 帰国して一ヶ月経った12月23日、札幌医大医師が坊やの病状チェックとソ連極東の医療事情調査をかねて、ユジノサハリンスクへ向かうことになり、私も記者として同行した。
 現地の病院で再会する。両親に「神様がきたよ」といわれ、医師に駆け寄るコースチャ坊やの笑顔が弾けた。
 丁寧な治療が行われ、順調に回復していることが確認された。医師が私に、「今夜、乾杯しよう」と弾んだ声で言った言葉が、いまも耳底に残っている。
 コースチャ基金は一億円にも達し、その後、火傷の幼児が何人も送られてきて、わが国の医療技術の高さを世界に示す形となった。
 あれから29年――。成長したコースチャ君に会いたいと思ったのは、あの時、君の命を救ってくれた医師は残念ながら亡くなり、もういないこと。もうひとつ、君を見守った多くの日本人、その善意で生まれた基金が、いまも国と国をつなぐ絆になっていること。
 日ロ間は、北方領土問題が大詰めに迫っている。君の命を救おうと、ふたつの国の人たちが必死になって取り組んだあの日のことを、君の口から発してほしい。ふたつの国の架け橋になれるのは君だけ。そんな言葉をかけたいからなのだ。



 
2019年2月7日


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