老楼快悔 第9話『「昭和」は実は「光文」だった』
2019年は「平成」最後の年、5月からは新元号に変わる。元号は西暦645年の「大化」以来、これまで1374年間も続いている日本独特のものだが、近年は西暦を用いる人が増えており、「元号なんか煩わしい」との声もある。
しかし官庁の公文書はすべて元号を用いており、テレビやラジオ、新聞、雑誌などは西暦と元号の併記である。カレンダーや日記帳なども併記が常識のようだ。
ここで思い出されるのが、大正天皇が亡くなられた直後の凄まじい報道合戦。実は「昭和」は新聞報道により、つけられるべき元号が消えて「昭和」になったのだ、というと、驚く人が多いかもしれない。
手元に大正15年12月25日の「東京日日新聞」号外がある。ここには大正天皇の崩御に合わせて「元号制定」として「光文と決定=枢府会議で」と報じられているのだ。枢府とは天皇の最高諮問機関である枢密院を指す。
この「光文」の報道は枢密院を激怒させた。この重大事項がなぜ漏れたか、威信にかかわる、というわけだ。緊急閣議が開かれ、光文に代わる新たな元号として「昭和」を上奏し、枢密院が政府案を承認して、詔勅を公布したのは同日午前11時。これにより東京日日新聞の大スクープは「大誤報」とされた。この事実が明らかになったのは昭和30年代も半ばになってからだ。
平成に次ぐ元号はどう決まるのか。政府が元号の選定手続きを定めたのは昭和54年(1979)。「元号は国民の理想を象徴するもので、読み書きがわかりやすく俗用されたものではなく、過去に用いられた例のない漢字2文字」である。平成に次いで2度目となる改元なので、マスコミ各社はスクープを狙って想像を絶する体制を敷いているとか。国民の中には、無関心な人はさておいて、賭けをしている人までいると聞かされた。
ちなみに「明治」は新天皇が候補名数点の中から籤で決めた。「大正」は「大正」のほか「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の候補から枢密院顧問官が選んだ。「平成」は「平成」「修文」「公化」の3案から選んだもので、中国の「史記」(五帝本紀)の「内(うち)平らかに外成る」と、「四書五経」の「書経」にある「地平らかに天成る」から採ったという。
元号は、前に候補になったものも新たに登場するそうなので、そのあたりも注意が肝心。
2019年1月25日
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