●セシリー

午後はうとうとしていた。目を開けると、ベッド脇の椅子に女の子が座って、ぼくが目覚めるのを待っていた。同じドイツ語の授業をとっているセシリー・ラチョイだった。ティーンエージャーの女の子がよく読むファッション雑誌『ヤング&モダン』をながめながら、ガムをかんでいる。信じられなかった。なぜセシリーが見舞いに来るんだ? 知らないに等しい相手なのに。たしかに、二、三週間前にあったルナ・ヘイズの家のパーティでは話をしたが、まともに会話をしたのはあとにも先にもそのときだけだ。そんなセシリー・ラチョイが、わざわざ見舞ってくれるなんて、マドンナから直接電話がかかってくるのと同じくらいありえない話ではないか。
 看護師が来た。「もう目を覚ましたかしら?」そう訊かれ、セシリーはいいえと答えた。
 ぼくは、横になったまま目を閉じていた。起きていいものかどうかわからなかったからだ。「かわいい寝顔ね?」看護師が言った。
 「ほんと」とセシリー。「子どもみたい」
 「大丈夫よ、元気になるから。幸い脳に損傷は見られなかったし。こういう事故の場合、それが一番心配なの」
 「そんなことがあるんですか? 脳が損傷するなんてことが?」
 「そういう人もいるのよ。でもヨナは大丈夫。ボードにぶつかって少々痛い思いをしたし、しばらく意識を失ってたけど、それですんだんですもの。一歩まちがえれば、もっと大変なことになっていたかもしれないわ。だけど、明日には退院できるでしょう」
 セシリーは立ちあがった。「あたしが来たこと、内緒にしておいてくださいね」彼女が病室から出ていく音が聞こえ、つづいて室内を歩きまわる看護師の重い足音が響き、しばらくしてドアが閉まった。あたりにはラベンダーの香りが満ちていた。セシリーのシャンプーの残り香だろう。よく見れば、なかなかかわいい子だ。こんなにも彼女のことを考えたのははじめてだった。
 目を開けると、ベッドの脇に、茎の長い深紅のバラが一輪置いてあった。カードが添えてある。ヨナへ。愛をこめて。友人より。
バラを手にとり、その香りを堪能した。今回の事故、もしかしたら、人生最良の出来事かもしれない。

●ソーン

今朝ソーンが見舞いに来てくれた。ドクター・シェルドンからは、もうコルセットをはずしてもいいと言われていた。するとソーンは、病室に入ってくるなり、そのコルセットを貸してくれと言い出した。あいつの頭の中には、〈コルセット=女の子を惹きつけるもの〉なる図式ができあがっているのだ。
 「信じられないよな。学校中の女が、おまえのこと、傷ついた小鳥みたいに思ってんだぜ。どいつもこいつもおまえの世話がしたいらしい。あんな女ども、はじめて見たよ。なあ、このコルセット、どこで売ってるんだ? うまくすりゃこれで一儲けできるぜ」
 セシリーが見舞いに来て、バラを置いていってくれたことを話そうかと思ったが、やめた。
 ソーンは、この前会ったときよりまた一段と日に焼けていた。黄色いTシャツに黒いショートパンツ姿でベッド脇の椅子に座っていたが、左の耳にはイヤリングが光っている。あれは、ポージーが持っていた、貝殻の形をした金色のイヤリングの片方だった。
 「なあ、ソーン、どこでそんなに焼いたんだ? サーフィンやってたのか?」こいつがポージーからサーフィンの手ほどきを受けている様がまざまざと思い浮かんだ。
 ソーンの視線が、神経質そうにさ迷った。「いや。ボートにのってたからだ」
 「ボートって?」ソーンの父親の新しいボートの話は聞いた記憶があったが、肝心の話の中身は思い出せなかった。
 「おやじの帆船だよ。週末はおやじを手伝ってるんだ。いかすスループ帆船でさ。最高だぜ。サンセットクルーズに行きたいって観光客が、ローダーデールの一ブロックにわたってずらっと並んでるんだ。おかげでぼろ儲けさせてもらってるよ」
 「すごいな」
 「ま、あれは仕事って感じじゃないな、ウン。帆船に寝ころがって、海パンの中のおれの息子をおおいに喜ばせてやってるってとこさ」
 ぼくは大笑いした。「へえ。そのうちいっしょに行きたいな。行ってもいいか?」
 ソーンは首をふった。「わかんないな。おやじに訊いてみないと。おやじ、けっこうみみっちくてよ。金を払ってくれる客以外はのせたがらないんだ」
 「だったら、週末に手伝ったっていいぞ? 働くのはいやじゃないからな。ボートで海に出られればそれでいいんだ」
 ソーンは窓の外を見たままだった。「おやじに訊いてみるよ、いいか?」
 「了解」
 ソーンは相変わらず窓の外を見たままで、しばらく沈黙がつづいた。


●ポージー

「ポージー」ぼくは言った。「彼はきみの部屋にいたよ」
 「あたしの部屋?」ボージーはゆっくりとくり返した。「本当に?」
 ぼくはうなずいた。「ルナといたんだ。ふたりきりでね」
 「ルナ? ソーンといっしょに……」ポージーはハッと息をのみ、口に手をあてた。「もしかして……?」
 再びうなずいた。「ああ」
 「やっぱり!」あえぐように言い、足を踏み鳴らした。「くそったれ、やっぱりそうだったのね。待ってなさいよ、今すぐそのいまいましい鼻をぶん殴ってやるんだから。何様のつもり? ただじゃおかないんだから、あの野郎!」
 ぼくはポージーの腕にふれた。「ポージー。怒ったところでどうなる。彼のことは忘れるんだ。彼はきみにふさわしくない」
 「そうね」ポージーはぼくの手を見つめ、それから顔をあげてまた目を見つめた。
 「きみに必要なのは、きみを愛してくれる人間だ。本当のきみを理解してくれる人間だよ」
 「いったいどういうこと? わからないわ」
 「きみは奇跡なんだ」自分をおさえられなかった。心からの思いだった。
 ポージーは首をふった。「行くわ、自分の部屋へ」おだやかな口調だった。「あいつをぶっ殺してやる」そしてくるりとむきを変え、階段にむかったが、やがて足をとめ、ふり返った。
 「ねえ。それはそうと、あなたは誰?」
 ためらっているあいだに、ポージーが近づいてきた。とは言え、人魚の尾を引きずっているので、容易には歩けない。ぼくは彼女に背中をむけると、板石を敷き詰めたドライブウェイを、通りへと歩きだした。「ちょっと」ポージーは走って追いかけようとしたが、巨大な尾のせいでよたよたとしか進めなかった。
 ぼくは駆けだした。「ねえってば! もどってきてよ!」ポージーの声が聞こえた。しかしぼくの足はあっというまに彼女との距離を広げた。マスクごしでは視界が悪かったため、頭から引きはがす。冷たい夜風が心地よかった。ビル・クリントンの頭は、舗道めがけてなげ捨てられた。ドサッ!マスクは舗道にころがった。
 一ブロック走り、自転車をとめておいた場所へつづく角を曲がる直前、ふり返った。
 ポージーが舗道に膝をついて、ビル・クリントンのマスクを拾っていた。シンデレラのガラスの靴が頭をよぎる。ポージーはこの先ずっと、マスクの主―顔があのマスクにぴったり合うただひとりの男―を探してすごすのだろうか。
 それから自転車にのり、家にむかった。

 

●ノースガール

 

ノースガール999

ノースガール999 : こんにちは、ヨナ・ブラック!
Jブラック94710 : やあ、アイネ! ずっとどこに行ってたの?
ノースガール999 : あなたのアイネは、あちこち旅行してまわっていたの。夏休みだったから、スウェーデンを離れてイギリスに行ってきたのよ。とても素敵だったわ。
Jブラック94710 : イギリスでは何を見てきたの?
ノースガール999 : ロンドンにいたの。だからウェストミンスター寺院とバッキンガム宮殿を見てきたわ。
Jブラック94710 : イギリスは気に入った?
ノースガール999 : イギリスはよかったけど、イギリスの男性はいやらしいんだもの! いつだって胸しか見ないのよ!
Jブラック94710 : どういうこと?
ノースガール999 : みんなね、胸の大きなブロンドの女の子を見たことがないみたいなの。パブに行くと、居合わせた男の人が全員、次から次へとお酒をご馳走してくれるものだから、あっというまに酔っ払いアイネの出来あがりよ! もう大変だったの!
Jブラック94710 : あのさあ、アイネ、正直言って、ときどききみの言葉が信じられなくなるんだ。
ノースガール999 : どの言葉が信じられないの?
Jブラック94710 : どれって言われても……。きみを傷つけるつもりはないけど、きみにだまされてるみたいな気がすることがあってさ。
ノースガール999 : どうしてアイネにヨナがだませるの? アイネはヨナを愛しているのよ!
Jブラック94710 : わかってる。ぼくだって愛してるよ、アイネ。たださ、なんとなく釈然としないことばっかりだから。
ノースガール999 : 釈然? 釈然としないってどういうこと?
Jブラック94710 : いいよ、別に。それじゃあ、もう接続を切らないと。
ノースガール999 : ダメよ、ヨナ。切らないで。わたしのヨナに、釈然としないままでいられたくないもの。


●ソフィー

「もしもし? ヨナ? ヨナ・ブラック?」女の子の声だった。
 「はい、そうですけど」
 「ソフィーよ。ソフィー・オブライエン。マストヘッドの」
 そのとたん、宇宙カプセルで一気に月まで吹き飛ばされ、そのまわりをゆっくりとただよっているような気分になった。水門からあふれ出してくる激流みたいに、ソフィーにいだいていたもろもろの思いが、ものすごい勢いでよみがえってきた。独特なメーンなまり。あの悲しげな瞳。
 「わたしのこと、覚えていないかもしれないけど、どうしても話したいことがあったから」〈覚えていない〉が〈おーぼえてない〉に聞こえた。
 「覚えてるよ。覚えてるに決まってるじゃないか」
 「お礼を言わなきゃと思って」緊張しているらしかった。「お礼くらいじゃたりないでしょうけど」
 「お礼ってなんの?」
 「この春、あなたがわたしのためにしてくれたことへのお礼よ」
 「ぼくが? いったい何をしたって言うんだい?」足から力が抜けていくのがわかり、壁によりかかってどうにかバランスをとった。
 「もう秘密にしておかなくていいのよ。わたし、本当のことを知ったんですもの。自分がどうしようもなく馬鹿みたいな気がするわ。あなたが助けてくれたのに。わたしのためにあそこまでしてくれて……。なんて言えばいいのかしら」
 「どうやって知ったの?」
 「あなたのお友だちが電話をくれたの。ソーン・ウッドっていったかしら? 彼、言ってたわ、あなたはずっと自分ひとりの胸にしまっておくつもりみたいだったけど、せめてわたしは知っておくべきだと思ったからって。彼の言うとおりよ」
 「ソーンが? あいつがきみに電話して、何もかも話したのか?」心臓の鼓動が激しくなってきた。ソフィーと電話しているなんて夢のようだ。
 「ええ。彼みたいなお友だちがいて、幸せね。わたしにも、そんな人がいればよかったのに」一瞬、間ができた。「ううん、そういうお友だちならわたしにもいるわね。ただわたしがずっとその存在に気づかなかっただけで。ねえ、ヨナ、あなたなぜわたしを助けてくれたの? ほとんど知らない者同士だったのに」
 「どうしてかなんてわからないけど……。そうするのが正しいと思ったからだよ」
 「ソーンは、あなたがわたしを好きだからだって」ソフィーは言った。「本当なの?」
 長い沈黙がつづいた。一番適切な答えを必死に考えた。そしてふと思った。今、ソフィーになんと答えるかで、ぼくの今後の人生が決まるのだと。
 「うん。きみが好きだった」
 「じゃあ今は? 今もわたしが好き?」その声には必死さがにじんでいた。



 

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