●ソフィー

窓の外に目をやると、大西洋が見えた。フロリダの陽光をあびてきらめく青い海。高速モーターボートがエンジン音を響かせながら走りまわり、クルーザーも浮かんでいた。はるかかなたにはヨットがぽつんと一艇、地平線を目ざして進んでいる。
 ソフィーがぼくのほうをむき、世界一やさしい声でささやく。「この瞬間が永遠につづけばいいのに」
ソフィーが体をよせてきて、ぼくたちはキスしはじめ、そのあいだに雨が静かにふりだす。雨音に合わせて、森がハミングしている。
「ヨナ」ソフィーがさっきと同じようにささやく。本当にこの耳で聞いているのかと思うほどの静かな声。もしかしたら、耳ではなく頭の中で聞いているのかもしれない。「苔の上に横になりましょうよ」
馬をつなぎ、地面に腰をおろすと、苔はビロードよりやわらかい。毛皮のようだ。抱き合って横になると、バッタが何匹も苔の中から飛び立っていく。
「じゃあ、わたしのこと、忘れずにいてくれる、ヨナ?」ソフィーがぼくの目をじっとのぞきこむ。またふるえている。ぼくは彼女を抱きしめる。
「もちろんだよ。忘れるわけがない」
「ああ、ヨナ、わたし、これからどうやって生きていけばいいのかしら。まるで、もう何もかも元どおりにはできないみたい」「そうしたいの? 本当に、何もかもを元どおりにしたいの?」
「いいえ」ソフィーはあおむけに寝て空を見ている。小さな雨粒がいくつも頬に落ちてくる。「どうしてこんなにややこしいことになっちゃったのかしら。ヨナがいなくなったら、きっとさみしくてたまらなくなるわ。今だってさみしいのよ。まるでもう行っちゃったみたい」「ここにいるじゃないか」
「わかってる。でもわたし、来年ちゃんとやっていけるかしら。ヨナがフロリダにもどって、わたしひとり、マストヘッドに残されて」
「大丈夫だよ」そうは言うものの、ぼくがいなくなることでソフィーが動揺しているのがうれしい。
「大丈夫じゃないわ」声が詰まる。その声音を聞いていると、ときどき心配になってくる。ソフィーはどうかしているのではないだろうか? 気にかけてくれる人間がいなくなっても、ちゃんとやっていけるのだろうか? ソフィーが泣きだす。だが、泣くなど馬鹿みたいだと思われるのを気にしているかのように、ぼくのほうをむいて懸命に笑いかけてくる。ソフィーの涙は、水色のインクの涙。シャツの首の部分がうっすらと染まっていく。
「ソフィーならちゃんとやれるよ」ソフィーの髪をなでる。
「全部わたしのせいなんだわ。ヨナが退学させられるのも。フロリダにもどらなきゃならないのも。ヨナがもどる学校って、マストヘッドみたいなの?」
「全然、ただの公立高校だよ」
「町はなんていったかしら、もう一度教えて」
「ポンパノビーチ」
「ねえ、じゃあもう一度聞かせて。ポンパノビーチってどんなところ? たとえば何があるの?」
 

●ポージー

あのあと、ゴールデンブロンドの髪を腰までのばした女の子がカフェテリアに入ってきたので驚いた。髪はぬれ、ビーチサンダルをはいて、短い紫色のサロンスカートをタオルのように腰に巻いていた。きれいに日焼けした足は細いが、しっかり筋肉がついていてたくましそうで、競走馬か何かの脚を思わせた。鎖骨には無数の水滴が残ったままで、ぬれて体にはりついた白いTシャツごしに、赤いビキニトップがすけて見えた。
 その子はぼくを見た途端、足をとめた。「うわっ。待ってよ。嘘でしょ。まさか!」
「何か?」ぼくは訊いた。
「やっぱり。ヤッホーッ! ヨーナじゃん!」その子が、手にしていたものをすべて床に投げ出して、両手を広げて駆けよってきてはじめてわかった。ポージーだった! 自分の目が信じられなかった。たしかに、ポージーはいつもかわいかった。だが今は、きれいで生き生きとした、颯爽たる陽気な〈女神〉だ。
「嘘みたい、ヨナがここにいるなんて!」とポージー。「ワーオ!」歓声があがった。ポージーの髪は、海の香りがした。
「びっくりしたよ、ポージー。いかしてるじゃないか!」
「おたがいにね、ヨナ! けど、全然変わってない!」
 もう一度誰かに言われたら発狂しそうだ。
 ポージーはほんの一瞬、考えこむような顔をしてから、目を細くした。
「ちょっと待った。いったいどうしたの、ヨナ?」
「なんでもないよ」やはりポージーだった。何も言わなくても、ぼくの様子がおかしいことに、三十秒とたたないうちに気づいてくれた。
「嘘つき。何があったの? なんだってひとりでカフェテリアにいるのよ? 一限目が終わるまでに、まだもう少しあるでしょ?」
 ぼくは、一度大きく息を吸ってから言った。「信じてもらえないと思うけど、十一年生にされちゃったんだ。フォン・エッセ先生のクラスだって」はっきり口に出すことで、自分でそれを事実にしているような気がして、気分が悪くなってきた。
「まさか! そんな権利、学校にあるわけないじゃない」
「マストヘッドでの事件のせいらしい」もちろんポージーは事件のことを知らないが、ポージーならそんなことにこだわったりはしない。
「学年末試験も、全部は受けなかったんだ」
「デタラメに決まってるわ。いい、そんなのデタラメよ。ちょっと、ちゃんと聞きなさいってば。とりあえず、教室に行かなきゃならないけど、ヨナをこんなひどい目にあわせたままにはしないから。約束する。このままずっと、十一年生でいることなんかないんだからね、わかった?」ポージーは再度しっかりと抱きしめてくれた。髪が押しあてられたところだけ、Tシャツがぬれた。「帰ってきてくれて、すっごくうれしい。話したいことがたくさんあるんだ」
 

●ハニー

ハニーと同じテーブルにいるのは、まじめそうな連中ばかりで、そろいもそろってぶあついメガネにゴルフシャツといういでたちだった。ハニーだけがロッカー風で、どう見ても天才には見えない。だがそれがハニーのすごいところで、我が妹ながら本当に摩訶不思議な存在だ。
 ハニーのいるテーブルへ歩いていった。「よお、豚肉の切り身」ハニーが声をかけてきた。「十一年生になったって噂でもちきりだよ。デタラメなんでしょ」
「ああ、誤解もいいところだよ」嘘をついた。「もう一回十一年生にさせられるわけがないだろ、冗談じゃないよ!」
 ハニーは、ぼくを頭の上からつま先までながめて首をふった。「十一年生のくせに。まったく、母さんが聞いたらカンカンだよ」
「おい、母さんに話すのはぼくだぞ。いいな?」
「どっちだっていいじゃん」ハニーは、となりに座っていたヤツに視線をもどした。そいつは、ノート十ページ分はありそうな方程式と格闘していた。そいつから鉛筆をわたされるや、ハニーはたちどころにノートを数字でうめていった。それも嬉々とした顔で、脇目もふらずに。数学に目がないのだ。ハニーにとってはいわば麻薬。実際、あいつは数学にかぎらずなんにでも夢中になる。退屈することを知らないヤツだ。
「なあ、本気で言ってるんだからな」ハニーの注意をひきもどそうとした。「いいじゃないか、ぼくがいなくなってから、えっとその、二年ほどになるんだし、少なくとも――」
「八百二十一日」ハニーは、依然としてノートに数字を書きちらしていた。
 こんなことができるとは――ぼくが何日家を空けていたか、片手間に計算して正確に数字をはじき出せるとは、筋金入りの狂人だ。
「ああ。とにかくさ、それだけのあいだいなかったんだから、多少は目をつぶってくれてもいいだろ」
ハニーは、まるで今はじめてぼくの存在に気づいたかのように、ぼくを見あげてきた。「いいかい、つぶれたイカ野郎。その件に関しては心配無用だよ、わかった? 母さんは今、自分で書いたあのくっだらない本のことで頭がいっぱいだもん。そんなことにまで気なんかまわりゃしないわよ」
「だとしても、絶対何も言うなよ、いいな?」
 ハニーが何事か考えこむように目を細くした。「もう、どうでもいいよ」そしてまた、数字を書きちらす世界にもどっていった。
 いまだに信じられない、妹が十二年生で、兄であるぼくが十一年生とは。まるで世界が一気にくつがえったようではないか。もはやすべてが無意味だ。

 

●ジュディス

「ヨナ、今はいろいろと思うことがあるでしょう。わかるわ。でもね、話したくなったら、ママはいつでもここにいますからね。それに明日から、心理療法の先生の治療もはじまるでしょ。そうすればきっと、驚くほどよくなるわ。だけど……」
そう言ってさし出されたのは、ベストセラー入りしている、母親が執筆した新鮮味のない新刊本だ。黒地の表紙には、オレンジ色の題名が躍っていた。『ハロー、ペニス! ハロー、ヴァギナ!』
「この本も役に立つわよ。八章の〈禁断の地への探検〉を読んでごらんなさい」
母親は、ティーンエージャーが直面する悩みや問題はすべて、セックスがらみだと思っている。というより、かたくなにそう信じこんでいるからこそこんな本を書いたのだ。もっともぼくは読んでいないし、この先も読むつもりはないが。
「母さん、ぼくは別に問題をかかえているわけじゃ――」
「ほら、ほら」再び片手が突き出され、もう一方の手が額にのびた。思いきり息を吸いこんでから、思いきり吐き出す。
携帯電話が鳴った瞬間、母親は目にもとまらぬ早業でテーブルからとりあげた。「もしもし?」と応じる。「わたしですが」
母親は送話口を片手でおおった。「大切な電話なの」そしてそのまま外へ出ていき、プールのそばに陣どった。ぼくは自分の部屋へ行き、ベッドに横になった。
ぼくの不在中に、母親はぼくの部屋を客用の寝室に模様替えしていた。床一面に敷き詰められた絨毯はミントグリーンで、ベッドカバーも、それに合わせてミントグリーンに変わっている。ダブルベッドの脇には小さなテーブルが置いてあり、そこにはかわいい小型のランプとクリネックスの箱が鎮座ましましていた。壁という壁はすっきり片づき、ベッドの上に額入りの帆船の複製画が一枚かけてあるだけ。まるでモーテルだ。
今のぼくにぴったりの部屋。
五分ほどすると母親がもどってきて、ドアをノックした。「はい?」
母親が入ってきた。「いい知らせよ、ヨナ」ひどく興奮している。ぼくは期待に胸をふくらませて飛びおきた。教育委員会の人と話をしてくれたんだ。教育委員会が口ぞえしてくれて、うまくいったんだ。これで十二年生にもどれるぞ!
「ねえ、誰のラジオショーが全米で放送されると思う?」
「誰の……なんだって?」

●ノースガール
アメリカオンライン・インスタントメッセージ
ノースガール999から 9月8日午後11時
ノースガール999:名前、年齢、性別は?
Jブラック94710:ヨナ、十七、男。
ノースガール999:どこに住んでるの?
Jブラック94710:フロリダのポンパノビーチ。きみは?
ノースガール999:Gnorsk。
Jブラック94710:Gnorsk?
ノースガール999:ノルウェーよ。
Jブラック94710:ノルウェー? ノルウェー人なの?
ノースガール999:ええ。
Jブラック94710:なんかノルウェー語で書いてよ。
ノースガール999:Ar de dar demerna inte era systrar?
Jブラック94710:オーケー。名前は?
ノースガール999:Aine。
Jブラック94710:Aine? なんて読むの?
ノースガール999:ハイネと同じ韻よ。^▽^
Jブラック94710:何歳?
ノースガール999:二十二。ストックホルム大学の学生。
Jブラック94710:そっちは何時?
ノースガール999:朝の四時すぎよ。フロリダは?
Jブラック94710:午後九時十五分。そんなおそくまで何してるの?
ノースガール999:眠れないの。彼氏とケンカしたから。
Jブラック94710:ぼくはドイツ語の勉強したくなくてさ。明日テストなんだ。
ノースガール999:ドイツ語、学校で勉強したわ。難しい。
Jブラック94710:そんなに難しいとは思わないな。ぼくは飛び級してるんだ。今十二年生。
Jブラック94710:ねえ、ノルウェーでの楽しみって言ったら何?
ノースガール999:わたしは音楽と読書が好き。それから男の子も! わたしの写真を送るわね。
Jブラック94710:どんな音楽が好き?
ノースガール999:スメルツってバンド、知ってる?
Jブラック94710:知ってるも何もお気に入りのバンドだよ!
ノースガール999:先月コンサートがあったの。わたし、最前列だったのよ!
Jブラック94710:どの曲が好き?
ノースガール999:〈アラビアの酋長〉
Jブラック94710:そうなんだ! ぼくもだよ。
ノースガール999:写真、届いた?
Jブラック94710:今ダウンロードしてる。ちょっと待って。これがきみなの?
ノースガール999:それがわたし。^ー^
Jブラック94710:すっごくいかしてるよ。
ノースガール999:よかった、気に入ってもらえて!
Jブラック94710:はじめてだよ、ヌード写真を送ってくれた人って。



 

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