老楼快悔 第85話 定山はなぜ行方不明にされたのか

老楼快悔 第85話 定山はなぜ行方不明にされたのか


暮れになるたびに思い出すのが、定山渓温泉を開いた修験者定山坊のこと。私がその存在を知ったころは、「大晦日に門松を採るため山間に入り、行方不明になった」という言い伝えだった。
『北海道ロマン伝説の旅』という本をペンネームで正続二冊出して間もない昭和53年(1978)晩秋、突然、本を読んだという高齢の男性から電話がかかってきた。小樽市の正法寺の檀家総代を務める方で、寺の歴史を纏めようと古い過去帳を整理しているうち、定山の亡くなった記載を見つけたという。
「定山の最期は行方不明とといわれ、貴方の本にもそう書いてあったので、失礼とは思ったのですが」と相手は恐縮するような口調で告げた。
私は肝をつぶすほど驚いた。定山が忽然と姿を消してざっと百年。ずっと信じられてきた行方不明説を打ち砕く資料の発見である。すぐに正法寺へ飛んだ。過去帳の明治十年の最後のあたりに、次のように記されていた。
「美泉定山法印 十一月四日 俗名 美泉定山 石狩札幌郡定山渓ヲ発見開創セシ人ナリ」
ところが定山の前に書かれていた方の死亡日が十一日も早く、死んでから発見されて同寺に送られてくるまで、どこかで遺体のまま置かれていたと推測された。
遺体が運ばれた時、僧侶はその死亡日を訊ねて記載しなければならない。何を根拠に「十一月四日」としたか。当時の天候を調べてこの日、石狩地方は大雪だったことが判明。遺体が雪の下に埋もれて発見が遅れたとして、僧侶がこの日を命日にしたのではないかと推測した。
不思議なのは戒名。本名に法印をつけただけのもの。だが法印は山伏修験者を指す意味もあり、これ以上にない戒名といえた。
以来、定山の故郷である岡山県赤磐市の繁昌院を訪ね、出家して旅に出た定山の足跡を追いかける。蝦夷地に渡り、小樽の張碓の野村治兵衛宅に身を寄せたのは文久元年(1861)。この地で湯の沢鉱泉を営み、「万霊塔」を建立。慶応2年(1866)ごろ、アイヌ民族に教えられて豊平川川上に沸く温泉にたどり着き、温泉を営みだす。定山渓の名は開拓使長官の東久世通禧が定山の労をねぎらい、つけたものだ。
二代判官の岩村通俊は温泉場を開拓使所管とし、定山を湯守にするが、やがて退職し、札幌や小樽の町に出かけて喜捨を受け、それで暮らしを立てるが、その旅の途中で行方不明になる。
定山渓の定山寺は後年、定山を開祖としている。小樽の正法寺には過去帳発見時に作られた位牌。境内には定山の墓が立っている。定山よ、もって瞑すべし。









 
2020年12月25日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ