老楼快悔 第84話 喜頓さんとの約束

老楼快悔 第84話 喜頓さんとの約束


 益田喜頓といっても、知らない人が多くなった。でも年輩の方には覚えている人もいよう。終戦直後に川田晴久らと「あきれたぼういず」という音楽グループを組織して、「地球の上に朝がきてぇ……」と軽快に歌い、笑いとペーソスを振りまき人気を呼んだ。
 晩年は故郷の函館に新居を建てて妻とともに移り住み、娘夫婦や孫たちに囲まれながら、テレビドラマに出演するなど元気だったが、平成5年(1993)12月、亡くなった。84歳だった。
 喜頓さんと知り合ったのは昭和54年(1979)秋だから、もう40年も前になる。その頃、北海道文化放送(UHB)に勤務していて、函館大洋の元監督、久慈次郎のドキュメンタリードラマを作ろうと模索していた。たまたま喜頓さんがかつて函館太洋オーシャン倶楽部の選手で、久慈監督の薫陶を受けたと知り、驚かされた。
 久慈次郎は早稲田大を卒業と同時に、社会野球の名門といわれた函館大洋に入り、名捕手として活躍した。日米野球が日本国内で開催された時は、主将兼捕手として日本軍を率いた。だが昭和14(1939)年、札幌の円山球場で開かれた樺太北海道社会人野球大会の一回戦、札幌倶楽部との試合中、相手捕手の二塁送球を右頭部に受けて昏倒し、亡くなった。社会人野球の敢闘賞は久慈賞の名でいまも残されている。
 喜頓さんと電話連絡して、仕事で上京した折り、浅草の自宅近くの喫茶店で会い、久慈監督の思い出話を聞いた。その時、喜頓さんから「そのドラマに私を出してほしい」と頼まれ、喜んで了解した。「函館太洋チームの後援会長役」が喜頓さんの願いだった。
 ところがである。計画は立て、構成案が大筋で出来上がったのに、肝心の番組スポンサーがいつまでも見つからない。その挙げ句、何一つ道筋がつかないまま、断念に追い込まれてしまったのである。すべては私の力不足なのだが、残念でならなかった。
 約束が実現しないまま、時は流れた。喜頓さんが函館に戻ると知らされ、お会いする計画を立てたのだが、結局は会うこともできないまま、忽然と旅立った。愕然となった。
 函館の実行寺を訪ねた。住職に案内されて墓前に立った。墓碑に本名の「木村一」と刻まれていた。住職が「喜頓さんと話し合ってここに決めたのです」と話してくれた。
 娘夫婦が住む東山の住宅へ赴いた。玄関前に喜頓さんの胸像が安置されていた。娘さんが「あまりによく似ていて、どきっとすることがあるんです」と笑いながら説明した。確かに、そっくりである。その胸像に向かい、改めて「申し訳ない」と詫びた。

 いまごろになって、北海道科学文化協会が毎年出版している「北国に光を掲げた人々」[39]に「笑いとペーソスを振りまいて」の表題で書き上げた。出版は来年秋。形を変えた喜頓さんへのお詫びのつもり、でいる。










 
2020年12月18日


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