老楼快悔 第47話 二・二六事件と阿部定事件

老楼快悔 第47話 二・二六事件と阿部定事件


 昭和11(1936)年2月26日に起こった「二・二六事件」を書くため、国会議事堂の周辺を歩いた。80年も前に陸軍青年将校は「昭和維新」を叫んで蜂起し、永田町の首相官邸を襲い、首相と間違えて秘書官を殺害。侍従長官邸で侍従に拳銃で重傷を負わせ、内大臣、教育総監、大蔵大臣をそれぞれ私邸で殺害。前内大臣は逃れたが、警備の警察官が殺された。
 首都は騒然となり、戒厳令が発せられたが、「原隊へ復帰せよ」との奉勅命令は届かず、29日、討伐に動きだす。「勅命下る。軍旗に手向かふな」のアドバルーンが掲げられ、飛行機から「下士官兵に告ぐ」のビラが撒かれた。そこには「今カラデモオソクナイカラ原隊ヘ帰レ。オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」と記されていた。
 事件は鎮圧され、反乱軍とされた青年将校2人が自決し、特設軍法会議は7月5日、青年将校13人と民間人6人に死刑が言い渡された。処刑される時、将校たちは「天皇陛下万歳」と叫んで、死んでいった。
 この軍法会議の判決が出る前に、とんでもない事件が起こった。「どうせ添われる仲でなし」と、待合で男性を殺害し、一物を切り取った「阿部定事件」である。遺体の太股に「定吉二人キリ」と血文字で女と男の名が書かれていた。
 定は品川駅前の旅館にいるところを発見、逮捕されたが、一物は帯の間から見つかった。くすぐったいような猟奇的犯罪、とでもいったらいいのか。日本国中が笑うに笑えない、一種異様な雰囲気に包まれた、といわれる。
 裁判官は懲役6年(求刑10年)の判決を言い渡した。定は服役中、真面目に過ごし、模範囚として恩赦により5年で出所し、戦後は浅草の目立たないところで小料理店を開いていたという。
 この阿部定と学生時代に麻雀をした男性がいる。私の後輩の新聞記者で、S氏としておく。昭和38(1963)年秋のある日、下宿の女性に「メンバーがたりない」と言われて、年配の女性ばかり3人の席に入った。後で「正面にいたのが阿部定よ」と教えられた。小柄だが、品のいい感じの女性だったという。
 大学を卒業したS氏は北海道新聞社に入り、やがて室蘭支社報道部長になる。そんな時、「あの阿部定が登別温泉で働いている」という情報が飛び込んできた。すわっ、と現場へ飛んだが、結局はわからずじまい。
 二・二六事件の話になると、どうしても阿部定の話になってしまうという、お粗末の一席。

















 
2020年2月19日


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