老楼快悔 第28話 白虎隊の自決を報じた「天理可楽怖」

老楼快悔 第28話 白虎隊の自決を報じた「天理可楽怖」


 戊辰戦争でもっとも悲惨とされるのが白虎隊の集団自決。16、17歳の少年たちが、もはやこれまでと、次々に死んでいった。これを最初に報じたのが「天理可楽怖(てれがらふ)」第3号。発生から八ヵ月経過した明治2年4月28日だった。
 実は、白虎隊の悲劇は、世間には知られていなかった。たまたま北越出身の萩原源蔵という人が、会津戦争における飯沼貞吉の話を聞き、東京・鍛冶町の医師宅で病床に臥せている時に語り、間もなく亡くなった。それを「心情新話」の題でまとめて、全貌が明らかになった。文章を現代文にして紹介すると――。

 十五歳から十七歳までの者を白虎隊と名付け、戦いに出撃させた。少人数なのに大軍を防いで功績をあげた。だが正直に命令を守り、どこまでも貫き通した。
 一人の女性が、出撃したわが子を探して山をよじ登ってみると、もろ肌脱いで腹を切り斃れる者、喉を突いて斃れる者、刃に伏せる者などがいて、折り重なった屍に鮮血が飛び散っていた。いずれも幼い少年たちで、女性は涙を流した。
 その中の一人の少年が、刃を喉に刺して呻いていた。直ぐに刃を抜き取り、背負って山を降りて手当てを加えたところ、ついに息を吹き返し、蘇生した。これにより自決をした十五人の姓名が明らかになった。(直後に一人追認)

 おやっと思うのは、少年の数だ。これだと自決を図ったのは17人で、16人が死んだことになる。いま言われている19人自刃、1人蘇生とは違う。
 慌てて「白虎隊自刃」の絵画を調べてみると、近年の作品には人物が19人描かれているのに、初期の作品には16人しか描かれていないのだ。明治17年に行われた17回忌法要では「自決者16人」とあり、この年に作られた左原盛純の詩をみると「十有六士腹を屠って死す」とある。
 この数字が突然変わるのは明治23年秋と、白虎隊記念館(会津若松市)に教えられた。後になって、飯盛山近くで3人の少年の自決死体が見つかり、白虎隊士の判断されたので、23回忌を期して追加したのだという。
 香火が立ちのぼる墓前に詣でた。眼下に、少年たちが涙で見たであろう会津鶴ヶ城がはるか望まれ、胸が痛んだ。









 
2019年8月5日


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