老楼快悔 第15話「現場に行け」の教え

老楼快悔 第15話「現場に行け」の教え


 事件が起こるたびに、先輩記者から「現場に行け」と口すっぱく教えられた。行かないで書く記者は人間のクズだ、とも言われた。それが身についてか、いまも執筆する段になると、登場人物に関わりのある土地へ足を運ぶ。
 『現場検証~昭和戦前の事件簿』(幻冬舎アウトロー文庫)に「鬼熊事件」を取り上げようと、千葉県多古町出沼に出かけた。事件は大正15年夏、恋に狂った岩淵熊次郎(35)が、相手の男性(25)をこん棒で殺害し、駐在所に侵入して剣を盗み出し、女性が住み込みで働く家に放火し、家主と女性を剣で切り殺して山奥に逃げ込んだ。
 集落は騒然となり、警官や消防団、青年団、在郷軍人会などが総出で山狩りをするうち、犯人と出くわした警官を鎌で切りつけ殺害。最後は事件発生から40日目、熊次郎が先祖の墓前で毒薬をあおり、剃刀で喉を切って絶命する。
 「鬼熊」といわれ、連日新聞が騒ぎ立てた事件である。すでに発生から数十年も経過しているので、せめて現場だけでも見ておこうと思ったのだ。
 東京都内から高速湾岸道路を走り、東関東自動車道の大栄インターチェンジで降りて県道113号を南へ辿ると多古町久賀。ここから山間の道を進むと出沼の集落に出る。小さな商店でその話をすると、驚いたことに「鬼熊事件」をよく知っていて、しかも恐れられていたはずの「鬼熊」が、「クマさん」とさんづけで語るのだった。
 「実直な人柄で、女に騙されたのです。逃げ回るクマさんに、集落の人たちがそっとにぎり飯を与えていたそうです。クマさんの末裔もいます。村八分? 聞いたことないです」
 道案内をしてくれた別の人が、村八分の言葉に敏感に反応し、涙目でそう話した。
 熊次郎が服毒して自決した先祖の墓に詣でてから、隣の集落を歩いた。年配の女性に話しかけると「よく知ってるよ」と答え、話しだした。当時17歳。いま、94歳という。
 「私の兄は熊太郎といい、陸軍騎兵隊に務めた人で、除隊後は村の消防部長をしておってな。火事だというので現場に駆けつけると、クマさんが燃える家から鎌を持って出てきた。熊太郎が鳶口を持って構えた。クマとクマとの一騎討ち。でも鳶口の柄が長い。クマさん、鎌をたたき落とされ、逃げていった」
 老女はよどみなく、一気に語りおえると、「どっちのクマもいい人だったのに」と言い、その場に座り込んだ。「鬼熊事件」と恐れられたもう一つの側面を、見せつけられた思いがした。



 
2019年3月28日


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